従来、トランスクリプトームを解析する際には、数十から数百万個の細胞を回収し、その細胞集団の平均的な遺伝子発現プロファイルを得るということが行われてきた。これをバルクレベルのトランスクリプトーム解析と呼ぶ。バルクレベルの解析では、細胞集団中に含まれる希少な細胞の情報は失われてしまう。また、複数の細胞亜集団の構成比率の情報も失われる。そこで、世界中で1細胞ごとにトランスクリプトームを解析するための技術開発が2010年ころから行われるようになった。これを1細胞レベルのトランスクリプトーム解析と呼ぶ。
一般的な1つの細胞には10万個程度の転写産物(mRNA)しか含まれていないため、PCR反応等により分子数を増幅する必要がある。しかし、開発初期の技術ではこの増幅の効率が悪く、バルクレベルの解析に比べて1細胞レベルの解析は、精度に劣ると言われていた。また、同時に解析できる1細胞の個数が少なく、細胞集団に多く含まれる細胞亜集団でないと解析ができなかった。この課題を解決するために、私が所属していた理化学研究所の研究チームは、精度とスループット(同時解析細胞数)の向上に取り組み、2018年にQuartz-Seq2を完成させた。
私達のチームを含む、複数の研究機関や企業により、1細胞レベルのトランスクリプトーム解析の技術開発が進められ、その結果、新たな国際プロジェクトHuman Cell Atlasプロジェクトが生まれた。2000年初頭、世界では人間の全ての遺伝子の配列決定を行うヒトゲノム計画が行われたが、ヒトの全ての細胞のプロファイリングを行うHuman Cell Atlasプロジェクトは現代版のヒトゲノム計画とも言われる。本国際プロジェクトにて、1細胞レベルのトランスクリプトーム解析技術についてのベンチマーキングが実施された。13の技術がベンチマーキングに参加し、2020年4月にNature Biotechnology誌にその結果が公表された。Quartz-Seq2も本ベンチマーキングに参加し、総合スコア一位の評価を得た。特に他の技術に比べて優位性が高かったのは精度の指標である遺伝子検出性能であった。
 1細胞レベルのトランスクリプトーム解析技術は、医薬開発への幅広い活用が期待されており、すでに取り組みが始まっている。化合物の有効性が生じやすい患者とそうでない患者の生体検体のシングルセルトランスクリプトーム解析により、精度の高い層別化バイオマーカーを探す試みや、生体内の細胞集団の中から機能性の高い細胞亜集団を同定し、化合物等の標的としたり、細胞医薬品のシードとして注目するなどの試みも始まっている。また、細胞医薬品や再生医療用細胞の製造では、生きた細胞特有の不均質性をコントロールする必要があるが、その品質管理にシングルセルレベルの細胞集団解析やそこから得られるバイオマーカーの活用が期待されている。
 1細胞レベルのトランスクリプトーム解析技術の有用性は高い一方、多くの検体を解析するには、さらなる低コスト化が待たれる。私達は、コア技術を応用することで、1細胞レベルでない代わりに低コストに多量の検体のトランスクリプトーム解析を可能とする大規模技術を開発した。本技術を用いると、化合物を処理した細胞の全遺伝子発現プロファイルを表現型とみなした新しい表現型創薬が可能になる。